(短編小説) 

川名  匡 

 手の指の感覚はすでに無かった。指がまだあるのか無いのか確認したかったが、目が開けられなかった。開けようとすると瞼が小刻みに震えた。震えるまつげに、風に飛ぶ雪氷が次から次と触れるのがわかった。音は聞こえていた。暴れるフードのボコボコした音。そのフードに当たる雪のサラサラした音。風の音はやけに遠くに聞こえた。まるで別の世界から聞こえてくるように小さく聞こえた。誰かの話声の様にも聞こえるし、獣の鳴き声にも聞こえた。すでに時間は止まった様だった。さっきがほんとにさっきだったのか、何時間も前だったのか、分からなかった。俺は何でここにいるんだろう……と思った。だけどそんなことを思い出すのも面倒くさかった。雪のかけらがひとつ、胸元から首筋に入り、胸の筋肉がプルッと震えた。それまで寒さも忘れていた事に気がついたが、その震えで目が開いた。凍り付いたまつ毛で良く見えなかったが、間横に飛び去る雪を弱いオレンジの光が写しだしていた。バッテリーが無くなるなと思ったが両手は重く、ヘッドランプまで上がらなかった。ゴアのヤッケの内側がバリバリに凍り付き、フリースが張り付いていたが、下着は濡れていなかった。右足が変な方向を向いていた。しかしそれよりもまだ足がついていることにホッとした。まったく変な事だが、目で見るまで足が付いている事が分からなかった。曲がった方の足のアイゼンは外れていたが、補助バンドで登山靴とつながっていた。アイゼンの前の外側3本の爪が大きく曲がっていた。そうか落ちたんだ……と思った。その時になってピッケルとザックが無いのに気がついた。そうか……と思った。思ったらまた眠くなった。

 夢を見た。いろいろな夢を見た。目が覚めると真っ暗だった。バッテリーが無くなった……と思った。さっきと場所が違うような気がした。バッテリーを交換しようと思い、体を少し動かした。柱時計の音がした。体を傾けたら、雪の斜面をズズッズッと少しずり落ちた。俺は今どんな場所にいるんだろう……と思った。思いながら、今度は反対に体を動かしたらまたズズズッ……と滑り出した。今度は止まらなかった。もう雪の斜面は無かった。空中をグルグル回転しながら落ちていた。外れたアイゼンが何処かへ飛んでいった。手を握っているのが分かった。大声を出したかった。でも声が出なかった。頭の中で叫び続けた。……柱時計の音がした。気がつくと部屋の布団の中にいた。

 薄明りの中に見慣れた天井と、山の写真と、柱時計が見えた。
夢だったか……と思った。隣には妻が寝息をたてていた。まさか大声出さなかったろうなと思った。出していたら大恥だと思い、ホッとしたらまた眠くなった。夢でよかったと思った。妻の腕を握り、また眠った。
 夢を見た。オレンジの光は消えていなかった。なんだまだバッテリーあるじゃないかと思った。雪はすでに止んで、風に乗った粉雪だけが時折舞っていた。目の前の雪稜に月が登ろうとしていた。


 妻はふと目が覚めた。誰かに手を握られた様な気がしたからだ。
明日には山から帰ってくる夫の事をちょっと考えたが、すぐにまた眠ってしまった。
カーテンごしの窓には、青白い月明りが光っていた。
 寝息をたてる妻の頬に一片の粉雪が舞い落ち、そしてゆっくりと消えていった。

おわり

(これはフィクションです)

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